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2007年11月15日 (木)

南町コミューン1985

滝山コミューン1974という本を読んだ。
数ヶ月前、母が私にプレゼントしてくれた本だ。

この本は、一面においては、筆者が小学校6年生となった
1974年をクライマックスに彼自身の小学校時代を綴った
自伝ともいえる。それが題にある1974という数字があらわすものであろう。

一方、滝山コミューンというのは、東京東久留米市の
滝山団地を学区とする第7小学校という公立小学校、そして
その学校に関係する小学生・教師・母親から成る小さなコミュニティーで
当時起こった、草の根の教育地域運動のようなものに筆者が付けた名前のようだ。

この本の主題となっている1974年は私が生まれた年であり、そして、
滝山団地は私が生まれた1974年から、幼稚園の年長となって
現在実家のある東久留米市南町(滝山から車で5~10分の場所)
に引っ越す1979年までを過ごした、いわば故郷である。
それで母が「面白そうだから読んでごらん」とプレゼントしてくれたのだ。

たった今読み終えて、なんともいえぬ懐かしさというのか、
心の中に小学校時代に吹いていた爽やかな風のようなものが
よみがえり、自分も何かを書きたい欲求にかられて、旅先の
ペンションの机で夜中の3時に作文している。

小学校や塾での友達や先生、当時考えていたことや
悩んだり楽しかったりしたこと・・
当時の記憶が一気によみがえり、現在の自分というものの一切が吹き飛んで
当時にもどってしまったかのような感覚だ。

この本の主題となっている1974年という時間軸上の点と、
滝山という空間軸の点は、どちらも私にとって特別な意味を持つ
ものではある。だが自分が筆者と同じ時間空間を共有したわけではない。

1974年は筆者にとって思い出深い6年生を過ごした年であるが、
私にとってはまだ記憶すらない自分の生まれた年である。
また筆者にとって小学校時代を過ごした場所である滝山は、
自分にとっては小学校に入るまでの幼児期を過ごした場所であり、
私は5歳のとき滝山団地から転出している。
だから私が行った小学校は同じ東久留米市立ではるものの、
第七小学校ではなく南町小学校である。

しかし、その辺は誤差のうち。

11年後の1985年、私が6年生時代を過ごした南町小学校での思い出には
共通するものがいくつもあったし、蓼科での2泊3日の林間学校には私も行った。

また四谷大塚をはじめとする中学受験の思い出での共通項の多さには少し驚いた。

筆者は4年生で会員になれずに、5年生になる時の選抜試験で会員になり、
四谷のイグナチオ教会の鐘がなる上智大学に行ったと書いてあったが、それは
まったく私の経験そのものだ。(自分のときは準会員という名前だったが)

もっとも自分の場合は彼ほど優秀ではなかったので、自分の
通った教室は以下のとおりだったし、毎週日曜のテストでも
一度14位を取ったという筆者とは違い、自分の最も輝かしい順位は
1984年3月の準会員から会員への昇格試験での59位、ないし、
より優秀な母集団である会員になってから取った160-180位ぐらいの
順位ではある。

---------------------------------------------
1983.12(4年生冬)準会員になる(沼袋教室)
1984.03(4年生末)会員になる(新会員は四谷教室)
1984.??(5年生 )早稲田教室やら池袋教室など
1985.??(5年生 )御茶ノ水教室
1986.??(6年生 )中野麻布二組
1986.??(6年最後)中野慶応二組
---------------------------------------------

が、あれから20年以上たった今になっても、59と言う数字を覚えている
のは、それが私にとってとても誇らしいことだったということであることを意味する。

この本の読後感は、私にとっては、「すがすがしさ」という一言になる。

当時の自分は希望に満ちていた。
自分がすごく頭のいい人間であるような気がしていた。
西武新宿線に乗って中野教室に通う自分に酔い、
地元塾の夏期講習で朝から晩まで勉強している自分に酔っていた。

刻々と迫る1986年2月1日、武蔵中学受験の日を意識しながらも、
友達のうちでファミコンでもりあがったり、自転車遊びをしたり、
淡い恋をしたり、今でもあの頃は充実した日々だったと感じる。

まだ世界は冷戦時代で、本気で核戦争を恐れていた。
でも一方で怖いもの見たさからか、原子力系の技術に興味があって、
6フッ化ウランとかいう言葉にドキドキしたりしていた。

1985年のつくば万博だとか、当時流行りだしていたマイコンブームなどに
未来を感じて、コンピュータが出来る人になりたいと、なんとなく思っていた。

 (4年生の時に買ってもらったぴゅう太の影響なんかもあるかな?)
 (もっぱら作りたかったのはゲームだったけど^^       )

ガンダムだとかキャプテン翼の話題に学校の友達の多くが夢中になっていたとき、
自分は家でテレビを見せてもらえず話についていけなかった。
でも、だからといってクラスの中で孤立するわけではなく、
やはりキャプテン翼を見ていない仲間なんかと連合して「そんなくだらない話やめよーぜ」
なんて立場を主張したりして、ワイワイやっていた。

多少陰湿なイジメなんかもあったし自分がその対象となったこともあったが、
一人の子が何ヶ月にも亘ってイジメられたりするのではなく、長くても2-3ヶ月ぐらいすると対象が変わったり解決したりして、現代ニュースになっているような深刻な類のものにはなっていなかったように思う。

筆者は小学生同士の駆け引きや人間関係を、当時の日記を引用したりしながら、
大真面目に論じていて、はじめは多少違和感があったが、思えば自分だって
大人顔負けの複雑な人間関係の中で毎日を戦っていたようにも思う。

○○君と同じ班になるためだとか、××係を押し付けられないようにだとか、
色々な利害もあったし、その対立もあったように思う。

ケータイもネットもパソコンもビデオもなかったが、十分刺激的な日常があった。
ファミコンを持ってるやつが少しいたし、ゲームウォッチブームは
とっくに経験済みだったけど、たいていは公園だとか駄菓子屋だとか森や空き地で遊んでた。

自転車での遠出や電車に乗ることが「背伸び」であって、
それだけでドキドキと陶酔が得られた。
まだ見ぬ世界がたくさんあって、いろんな冒険があった。

あの頃が好きだし、あの仲間が好きだし、あの空気が懐かしい。

そんな読後感だった。

20年後の今の子供達は、今この時代、この世界をどう感じているのだろう。
今の自分の目に映る灰色で色あせたこの世界も、
彼らには虹色に見えているのだろうか。

無論そうなんだと思う。
それが少年時代というやつなんだろうと思う。

そうだ、世界が灰色に押しつぶされそうになるときは、
時々目を閉じて、少年時代に戻ろう。

だって、ときめきや好奇心、希望や夢、
そんなものを思い出すのって悪くない。

あのころは自分の中に、そういう
「生きるためのエネルギー」があふれ出る井戸があった。

そして残念ながらその井戸は今枯れているか、もしくは
枯れる寸前であるということ。
今日当時を思い出すことで、そのことを発見したから。

もう一度その井戸をよみがえらせる方法は知らない。けれど、
少なくとも、今日読んだ滝山コミューン1974がきっかけとなって
あのころに戻ることで、心に爽やかな風が吹いたことは確かだ。

だから、また時々目を閉じて、
1985年頃に出かけたいなと思う。

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原武史『滝山コミューン一九七四』講談社2007  本書は、政治学者(主に天皇研究)で知られる著者が、自らの小学生時代を振り返りながら書いたものである。 原武史 - Wikipedia 帯の紹介によれば (表) マンモス団地の小学校を舞台に静かに深く進行した戦後日本の大転換点。た... [続きを読む]

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