大阪、妻の実家で紅白歌合戦をちょっとだけみた。
妻方の親戚の誰もが「別にみたくない」というスタンスだったのだが、
10:30ごろから1時間ちょっと見てしまった。
ゆく年くる年を見たいけれど、それまで別のことをしていると
ついつい見逃しそうだったので、しょうがないのでテレビをつけていた感じだ。
コタツに寝っ転がって、
「あー、つまんねぇ。 あ、また音程はずれた」
「うぁ。痛い演出だ。」
なんていう感じで、
そんなネガティブな視点でしか番組をみられなくなっている自分に
少し嫌気がさしつつ、やっぱり、それは自分のせいじゃなくて、
番組が悪いんじゃないかなんて思いつつ、せっかくの年越しに
こんな気分になっている自分が少しいやになりつつ・・
チャンネルを変えると、
さらに輪をかけてどうしようもない番組しかやっていない。
とそこに、救世主登場。
誰かが新聞を持ってきてくれた。
毎日新聞だった。
さっそく1面から読んでみた。
トップには「孤独の岸辺1」と書かれた記事があり、
僕と同じ世代の「ひきこもり」「失業」それに伴う「経済的、心理的窮地」
などの話を「孤独」というキーワードで描いていた。
何かの事件や発表ではなく、リアルタイム性のない記事が1面トップに
きていることに違和感を感じつつも、記事に登場する数名の抱える
それぞれの「孤独」を読み、「どうにかならないものか」と思った。
別にヒトゴトではない。
確かに今自分は結婚し、子供もでき、今、家族・親戚と一緒に
紅白歌合戦なんかを見ていて、「孤独」とは程遠い状態にいる。
でも、大学時代の一時期、
軽い挫折が重なって3か月ほど引きこもっていたこともあるし、
つい2-3年前までは漠然とした不安と「孤独」が
時々発作のように訪れたりもしていた。
記事にあるほどの深刻な「孤独」を経験したことはないけれど、
当事者たちの「孤独」をある程度まで想像し共感することはできた。
ふと、目の前にいる9か月の息子の無邪気な笑顔が気になった。
18年後の彼が同じような「孤独」に襲われたとき、
18年後の僕が何ができるのか?
今の彼の、曇りない無邪気な笑顔を守ってあげられるだろうか?
いや、絶対に守りたい。それが自分の使命だ。
そんな風なことをあれこれ考えた。
その間も相変わらず、テレビでは派手に着飾った人々による、
豪華な舞台の上での、全く共感のできないような歌や踊りと、
彼らの中での、お互いの賛美が垂れ流されていた。
手元の新聞記事と、NHKの電波でTVから垂れ流れている
芸能界の馴れ合い番組のコントラストが鮮やかだ。
#NHKの司会者も、いい加減「大変盛り上がっております」
#とかいうセリフを使うのはやめようよ。と思う。
#なんか、痛いよ・・
この番組は、孤独な彼等を救えるのだろうか?
答えは明らかだ。
その賛美や喜びの輪の中にいない、入れない人々
にとってのこの番組は、疎外感を味あわせる番組でしかない。
そこに近年の紅白の凋落の一因を見た気がする。
昔の紅白はきっと違ったのだろう。
きっと歌手も芸能人も、あらゆる境遇の日本人に
勇気や力を与えていたんじゃないだろうか。
テレビができて間もない時代の日本人は、
おそらく、テレビや歌番組というものを無邪気に
楽しめたはずだ。
「こいつは、面白いことをいう」
「! これはすごい歌だ。」
そこから「ほんじゃ、俺も来年はいっちょがんばるか」
なんていう気持ちになれたんじゃないだろうか。
でも、今は違う。
現代の視聴者である我々は、テレビの中にいる人々がみな
「成功者」「勝ち組」であることがわかっている。
するとテレビは、「孤独」な「負け組」である自分を
鮮やかなコントラストで浮き彫りにするだけの装置となる危険性と
常に背中合わせとなる。
紅白の視聴率低下、テレビというメディアの
地盤沈下をどうするか考えるのならば、
番組づくりにおいて、この力学を上手に処理する仕掛けが必要であろう。
いや、それは「仕掛け」というような表層的なものであってはならず、
作り手の「想い」の中に滲まねばならぬ類のものなのかもしれないが。
実際、我が家では、
「この人の衣装、ひどいわねぇ」だとか、
「紅白もイヨイヨ末期だな」だとか、
「そこにマーティフリードマンかよ!」だとか、
まあ、なんだかんだいって、家族の会話の触媒装置として
なんとか紅白は機能した。
しかしその触媒はネガティブな会話しか産んではくれなかった。
もっと、
「うぁ、すごいなこの人」だとか、
「ほぅ・・考えたねえ、この演出」だとか、
「! (言葉を失う)」だとか、
そういう反応をしたい。
それに、歌番組なんだから、やっぱり、
生半可な努力では達成しえないプロの歌手ならではの
「歌の力」を見せてほしい。
sakusakuに出てくる歌手たち、バンドたちからは、
彼等の純粋な想いやエネルギーが伝わってくる。
しかし、今の紅白のから伝わってくるのは、
NHKや一部既得権益芸能人とその取り巻きたちからの
どろっとしたいやらしい空気しか伝わってこない。
極めつけは、
「がんばれニッポンのサラリーマン」
だかなんだかいう歌詞(妻いわく島田伸介が考えたらしい)
のへたくそな歌だった。
「ふざけんな。
お前らに言われたくない。」
そう感じるのは、自分が病んでいるからなのだろうか?
これは普通の感覚ではないだろうか?
10年前の「リゲイン」のコマーシャルは理解できた。
ちゃんと、ビジネスマン風の格好をして、「共感」を呼ぶための装置が
コミカルに「元気」を演出できていた。
が、これはあかんだろ。
「がんばれ」というメッセージを本当に伝えるためには、
「がんばれ」という歌詞を歌えばいいってもんじゃない。
まあ、いいや。
んで、そうこうしているうちに、11:45となり、
お目当ての「ゆく年くる年」が始まった。
悠久の時を超えて伝えられた仏像のやすらかな表情。
荘厳ながら静謐な寺社仏閣の佇まい。
祈りを捧げる僧侶。
新聞に出ていた孤独な人々を救うことができるのは、
彼等なのかもしれない。
そんなことを想いながら、私の2008年はくれてゆきました。
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